株式会社JRプロダクツ 代表取締役 1947年9月28日生まれ
1976年 スポーツグローブメーカーの株式会社中虎の代表者に就任
1982年 ゴアテックスを用いたスキーグローブを日本で初めて商品化
1986年 衝撃吸収材テンパーフォームを用いたライダーグローブを商品化
1987年 株式会社JRプロダクツを設立 「JRP」ブランドでライダーグローブを販売する
2005年 中虎・JRP合わせて数万双を生産するグローブメーカーに成長

左の写真は、2004年夏から乗り始めた愛車W650とともに、
右の写真は、まだ幼い子どもたちと共に(20年ほど前)。

「青春真っ只中」

 57歳の今、自然にこんな意識がある。意気がってる訳ではなく、確信を持ってそう思うのだ。…確かに、若い時(20代とか30代そして40代)より、格段に今が充実している。自分の場合、若かった時は“若い”と云うより、“青かった”と云った感じで、生きる確かな“手応え”のようなものが希薄だったように思うのだ。
 29歳の時、親父の後を(死去の為)継いで代表者となり、会社もいくらか大きくなって、一端の“経営者”を気取っていたが、今振り返ると、思い上がっていたのが分かるし、足もしっかり地についていなかったのは否めない。高額所得法人に名を連ね、自分に力があるが如きの錯覚に陥っていた。
 ところがその後、時代の急変に売上は激減、多額の赤字を計上し、“破綻”の予感の中に這いずり回ることになった。長く悶え苦しんだ結果、3年ほど前、一筋の光を見出したのだ。背伸びをするのは一切止めて、等身大のまま、“自分”を偽らずに、“自分”を生き抜こうと、確信めいたものが出来た時、そこには後ろめたさのない、すっきりした、けれども、“誇らしい”自分がいた。ベンツを中古の国産車に乗り換えたら、それまでの肩の重荷が取れたようで心も安らかで、爽快この上なし。肩の力を抜かないと、柔軟な発想が出来ないことが(凡愚の自分は)この歳になって分かってきた。
 人の気持ちもいくらか分かるようになってきたし、モノの味わいも深くなってきた。
人の“情”も、酒の“味”も、モノの値打ちも、若い時に比べると、目からウロコがまとめて10枚も落ちた如く、別世界のように、輝いて、かつ感動的に見えるようになったのだ。
 昨年15年振りに、バイクに乗り始めた。学生時代に始めた剣道は7年前に再開し、この夏は六段に挑戦する。又、2ヶ月前にきっかけがあり、18年振りに絵(油絵)を書き始めた。9月には地元のホテルのレストランでお披露目することになっているので、晩酌は控えて、絵筆を握っている。
 正に今、「青春真っ只中」である。

 





工房”奥山”代表 1954年6月5日生まれ
1973年 大手ベアリングメーカー勤務
1980年 株式会社中虎入社
1984年 中虎退社後、独立し工房”奥山”を開く
2005年 鹿革・オイルドレザーをと得意とする革専門の裁断職人として活躍

左の写真は、愛車ゴールドウイングとともに
右の写真は、1970年頃、カワサキ350A7とともに

「いつもバイクとともに」

 私がオートバイを好きになったのは、小学校6年生の頃で、いとこの兄が自衛隊から大きなバイクで地元に帰ってきた時でした。「あ〜カッコイイ! このバイクどこの?」と聞くと、「ホンダCB250」と言いました。あの頃(1966年)は、まだまだ車・バイクともに少なく、近くの国道でも、それほど車両が走っていない時代のように思います。
 それから大人になったら、「絶対バイクに乗るぞ!」と思い、それから4年後に免許を取り、一番最初のバイクがカワサキ350A7でした。このバイクは色々な想い出が有り、その中でも友だちと二人で九州へツーリングへ出かけたことを鮮明に覚えています。
 長崎県の西海橋を走っていた時、とても景色の良い所で、友だちと橋の上で行ったり来たりして回っていた時、橋の向こう側で手を振っている人がいて、よく見ると警察の人でした。
 「あーやばい!」と思いおそるおそるそこへ行くと、そこは西海橋駐在所でした。あの時、台風接近のため雨が降っていて、それも夕方警察の人がナンバープレートを見て「香川から来たのか、まぁー中に入って茶でも飲んでいけ」と言ってくれ、それから近くの旅館まで紹介してくれたことは今でも覚えています。
 それから十数年が過ぎ、一度降りていたバイクに再び目覚め、31歳の時、ヤマハの750ccを中古で買い、33歳でホンダCBX1000を買い、35歳でホンダGL1500を新車で買い、いろいろな所を走りました。そしていろいろな良い想い出を作りました。
 現在は51歳。今はバイクには乗っていませんが、また乗ろうと思います。



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